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健康でいる能力の格差 脳筋ヘイトと病弱男のぼやき

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「自己管理が出来ていれば風邪はひかない」などとのたまう馬鹿がいる。 そういう馬鹿を目にすると、なるほど馬鹿は風邪を引かないという言葉にもそれなりの信憑性があるようだと妙に関心してしまう。

当たり前だが、人は病気になる。そして、馬鹿には想像もつかない事実のようだが、病気のなりやすさには個人差がある。 かくいう僕も病弱な性質で、酷い時は一ヶ月に一度風邪をひいてうつうつと過ごす羽目になる。

ここまで書くと、体力馬鹿は決まって「日頃から運動して体力をつけてアレしてコレして」などとアホ丸出しの一方的なアドバイスを投げてくる。 無論、こちらは馬鹿ではないのでそのようなことは承知している。その効果も認める。だがそれでも病むときは病むのだ、そして病弱な人間はどんなにスポーツをしていようが一般的な人間よりも高い頻度で風邪を引くのだ。

どうも僕にはインドアな引きこもり人間のよーなイメージがつきまとっているようで、それゆえに脳筋馬鹿に謂われなき中傷を受けるわけなのである。しかし僕の幼少期は、家の近くを駆けずり回るという至極健康的なものであったし、小学校から高校の中期までは常に何かしらのスポーツをしてきている。その上、今でも特に運動を厭っているわけではない。というか、やせ形で眼鏡かけてるという外見的特徴だけで勝手に人の属性を決めつける浅薄な輩はどういう脳味噌をしているのだろうか。

とにかく、そういうような人間であったにも関わらず僕は昔から一貫して風邪を引きやすかった。

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特定のウィルスへの免疫というような特殊なケースを除いても、病気への罹りやすさというのは、多分に生得的なものでその後の努力で根本的に改善するものではないと思う。
それだけで免疫力を計れるものではないが、白血球の量にしてもかなりの個人差がある。努力、根性や友情で白血球が増えるなら現代医療は苦労してない。

免疫力に限らず、人間の持つありとあらゆる能力には、生まれついての差がある。という現実については、認識していても理解している人間がすくないように見受けられる。

例えば、生まれつき呼吸器に疾患がある人間に「運動して体力つけろ!」と言って外を何kmを走らせるようなことが非人道的な行いであるのは現代人にとっては明白でおろう。
しかしこれが、風邪をひきやすい、だとか長めの睡眠をとらないと体調を崩してしまうetcetc......などといった、わかりにくくかつ世間的な承認を得ていない属性になると、途端に野蛮人の本領を発揮する輩が大量にいる。想像力が欠如したまま他人を攻撃出来るのは馬鹿の特権であるが、勿論それに付き合わされる方はたまったものではない。

とんでもない馬鹿になると、「私は毎日3時間睡眠や徹夜で仕事してるのに身体を壊さない」などと言い始めるが、言うまでもなく脳がおかしくなって自分の状態すらまともに判断出来ていないだけなのである日突然死する。もしくは鉄人である。どちらにしろまともではないのは確かだ。
そして、そういう人間であっても「もっと要領よくやれ」という指摘には反発するのである。そして「こんなに頑張っているのだからそんな必要|余裕|余地はない」というような謎理論を持ち出し始める。

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そもそも何故「自己管理が出来ていれば風邪はひかない」のような意味不明なフレーズで我々病弱マンが不当に貶められる必要があるのだろうか。

生き物が病気になるのは自然なことである。人間だけではなく、野生動物や虫、そこらへんの雑草ですら病気になる。 体力だけが人類の宝であった未開時代ならいざ知らず、現代において文明を押す原動力となっているのは知力である。にも関わらず、病気の人間を心配するでもなく、むしろ唾を吐きかけるような風潮がこの日本には(全員とは言わないが)ある。ペストが蔓延する中世でもあるまいに。

無論、個々人の人生のレベルでは健康は追求すべき素晴らしいものだ。異常なのは、社会全体が過剰に健康を賛美し、その対極にある病気に罹る人間を貶めることである。

僕はここに無謬性を前提とした潔癖的な社会システムの影響をみてしまう。よく学校批判の槍玉にあがる皆勤賞などはその最たる例だろう。

学校の教育体制が持つ余力の関係から、病欠した生徒へ個別のケアを行うのは不可能だ。これは仕方がない。 なので、出来るだけ生徒には出席してほしい。なので欠席しなかった生徒を表彰する。ここまではまだわかる。

教師というのは世間知らずで浮世離れしたアホが多く、物事には染み一つないのがあるべき形だという妄執に取り憑かれたパラノイアを輩出しやすい。また、それを抑止する機構も存在しない。 そのため、元々は運用上の穴をカバーするための方便の一つだったはずが、席しないという無謬性を追求するための異常なシステムを作り出してしまっている。

社会に出たとして、個人レベルにまで過度の無謬性が求められるのは大体が困窮している企業(多くはブラック企業と呼ばれる)だ。 何故困窮していると無謬を求められるのかと言えば、バックアップ体勢を敷く余裕がないからである。

もちろんいくら余裕があっても、そうそう失敗ばかり許容している会社などあるわけがないが、余裕のない組織というのは失敗の解釈を無限に広げてその責任を個人に着せるものである。そもそも、体調を崩して休みをとるというのは本来はそこまでの失敗ではないはずだ。 東京に過半数のサラリーマンは、ブロイラーよりも酷い密度に押し込まれて電車通勤している。そうでなくても、この国は人口密度が高い。これだけの人間から保菌者を探すのはそれほど困難な作業ではないだろう。

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一度でも(肉体、精神問わずだ)病気になった相手をなじったことのある人間には、まず落ち着いて自分の状況を確認してもらいたい。

もしかしたら相手の病欠を許せないような事情があるだけなのではないだろうか。当たり前だが、誰もなんのミスもしない前提でスケジュールをひいていたとしたら、それはスケジュールをひいた人間か、そのようなスケジュールをひかざるを得ない状況を作っている組織自体に問題がある。その責任を相手に全てかぶせようというのは余りに短絡的すぎる。 本当に「病気になったこと」それ自体が責めるに値する状況というのはそうそうお目にかかれるものではない。例えばいきなりアフリカに旅行してエボラにかかりましたーとか、封鎖されてる代々木公園に忍び込んでデング熱にかかりましたーなどというアホがいたら囲んで棒で叩いても仕方ないとは思うが。

うつ病の人に心ない言葉を浴びせかける人間にしたところで、愉快でやってる本当の性格異常者をのぞけば「俺だって不幸で毎日辛いのに貴様はなんなんだ」というような鬱屈を抱えている者が殆どだ。残りは日本の異常な無謬主義に染まったエアヘッドだ。

僕は日本がヨーロッパみたいなクソいい加減な国になれば良いとは思わないけど、もう少し余裕と、失敗を許容できる賢さを備えてくれたらなと願ってやまない。 少なくとも「人間が風邪はひく」という、誰でも理解できそうな現実と向き合えない程度の能力しかないようでは「ゆたかなにほん」なんてものは到来しようがないだろう。

今回は病弱マンに論点を絞ったけど、台風でも出勤させるだとか、あらゆるところにこの手の理不尽は転がっている。予測するよりも備えよ。

とりあえずは、さっさと有給休暇と病欠が別で取れるようになることをクソ願っている。っていうか病欠を有給で埋めるのはおかしいだろふざけるなくそったれ!

とりとめがなくなったが以上。